誰かが私を呼んでいる様な声が、遠く幽(かす)かに意識の中に浮かび、うっすらと目を開いた私は夢とも現つともつかぬボーとした薄暗い原野を彷徨っている様な朦朧とした意識の中にあって、手首が看護兵に握られている事に気付いた。 ともすれば底なしの沼の中に吸い込まれて行く様な意識の中で今田看護兵が私を呼ぶ声を聞いた、私の肩をゆすぶりながら「小野!」「小野!!確りしろ!親兄弟に逢い度くないのか?、恋人はいないのか」と叫んだ。それは今や消えんとする生命の火を、暗夜に油の切れかかった燈心を掻き立てる様に、消えかかった私の生命(いのち)の火をパッと燃え上がらせた。親兄弟!恋人!!この言葉が私に生への執着を掻き立てたのであろうか?否! その時の私は生への執着も、死への恐怖も全く無かった、と云うより生も死も全く考えなかった、只だ静かに!いや幽やかに呼吸を続けている自分自信を見つめているだけであった。そこに自然があり、神があり仏があり、運命があることを心の底に感じとり肉体の弱々しさと反対に確かりと自分の心を支えていた。それは蜘蛛の糸よりも細く弱々しいが、枯れることのない泉の様に、生命の根源潤す何ものかであった。私は心の中で叫び続けた「精神は肉体に勝つ、必ずかつ」と。 私は今田看護兵の言葉の中に溢れる友情と死に対する予告に似た物を感じ取り乍ら「大丈夫です」と静かに而も力強く囁(ささや)いた。今田看護兵の「確かりしろ!」と云う言葉の後に続くものが「なにか言い残すことはないか」であることを読み取った。何故かなれば、私よりずっとずっと元気な患者が一夜の中に冷たくなって居たことがしばしばであったからだ。私は私自信の死について考えてみた。親兄弟の泣き悲しむ顔が目の前にあった、しかし私自信は少しも悲しくなく一切が空白に感じられた、そして漠然と私は未だ死なないと思った、それは死にたくないと云う気持ちでも死を恐れる気持ちでもなかった。私はもう一度「大丈夫です」と云った。 そして私自信がその言葉によって、今にも切れんとする生命の糸に限りない力を与えられ「死なない」という確信に似たものを持った。斯(か)くして第三者の目には少なくとも危篤状態であり病状は一進一退の中に三日を経過した。 病棟の天幕が南国の太陽から解放されて、ほっと一息入れて、薄い闇にこうもりが羽ばたき始めた頃だった。 夕食後うとうとと眠りに入っていたが、ふと何物かに叩き起こされた感じでガバと飛び起き、上衣のポケットから「お題目」を書いた白布(それは常に上衣のポケットに入っており汗と油に薄汚れていた)を取り出して両の手で頭上に掲げ、割れ鐘の様な声で(私の何処にこの様な力が残されていたのか、私自信が不思議であった)「南無妙法蓮華経」と唱え出したのである。全くそれは晴天の霹靂であり私自信どうすることも出来なかった。患者も看護兵も只唖然として見守る中を、割れ鐘の様な声で「お題目」を唱え乍病棟の内外を歩き回ったから大変だ、患者も看護兵も終に発狂したものと思った。 大声でお題目を唱える私を今田看護兵が漸く取り押さえてベッドに寝かそうとしたがお題目は止まらない、それのみか私は看護兵に「法華経を信じよ!日蓮を信じよ!題目を唱えよ!さもなくば無事に日本の土を踏めないぞ」「お前は日本は帰り度はないのか」と云い放った。 今田看護兵はカッとなって私を殴り付けた、頭はジャガイモの如くジャコボコになったが少しも痛くなかった。私は殴られ乍も「日蓮はもっともっと迫害を受けた」「これが何だ日蓮はもっともっと迫害を受けたのだ」と繰り返した。 私は私の意志をそこに持たず只私の口が独りでに動き独りでに言葉となるのだった。私は私の言った言葉を私の耳で聞き、それが私が言った言葉であることを知るのである。 「南無妙法蓮華経」「南無妙法蓮華経」とお題目は滔々と滝のように迸り出るのであった。今田看護兵は私が又幕舎の内外を題目を唱えて出歩き回らぬ様私をベッドの上へ突き飛ばし兵隊達の持っている麻縄で両手両足を縛り付け、体の動きがとれない様に、ぐるぐる巻きに縛り付けた。 そして私が後生大事に持っていた「お題目」を行き成り取り上げて仕舞った。 しばしの揉み合いに疲れ果て、私は手足を縛られた儘うとうととし始めた。衛生軍曹はじっと私を見下していた様だ。担架の支え棒に懸かっていた踵が何かの拍子に外れた途端に、奈落のそこに引き落とされ、暗い暗い空間を空間を加速度的に沈んで行く、驚いて、踵を支え棒に乗せる。スーッと生き返ったような気持ちになる。又外れる、途端に闇の中へ魂が吸い込まれて行く、私は朦朧とした意識の中で、死の影を直感した。そして次の瞬間「お題目」を取り上げられたことを思い出し思わず「それを返して呉」と怒鳴った。私は今日まで、自分自信の精神力で、生き抜いてきたと信じていたのに、今「お題目」から離れて初めて、それを如何に頼りにしていたかを知らされた。私は初めての死の恐怖に立たされた。「それを返して呉れ!それを返して呉れ!!」と声を限りに懇願し、怒号した。人間の心の底からの叫び、岩をも通す一心の願いである悲痛な叫び声に、今田軍曹は我を忘れて、今取り上げた「お題目」を返してくれた。私は手首だけの自由で、広げられた「お題目」を畳もうと一生懸命に操ったが、上手に行かない。今田軍曹が見かねて綺麗に畳んで私のポケットに納めて呉れた。 私が担架に手足を縛り付けられ「お題目」を取り上げられてから長い時間が流れたように思われたが実際はほんの何十秒か、恐らくは二分と経っていなかったのであろう。而し私には、永い永い間、死と対決していた様に思われた。 この「お題目」はその後も夜間になると、突然に私の口から迸り出るのであった。それは独りでに迸り出るので、どうにも仕様がなかった。第一真夜中ではあるし、重病人も多いし、大変傍迷惑である。私は手拭いを口の中に押し込んだり、指を銜(くわ)えたりして、出来る丈け声を出さない様にした。而しどうしても止めることは出来なかった、それでも何かを銜えていれば声は小さくなった。 一方患者達は他人の事など気にする元気もなく或るものは呆然と担架に横たわっていた。彼らの共通点は只一つ皆空腹と、栄養失調に悩まされている事だ。だから自分の隣に寝ていたものが翌朝冷たくなっていても看護兵が点検するまでは誰も知らぬ顔であり、誰かが少し唸っても怒鳴っても、看護兵が気にする位のもので誰も取り合わない。こんな中で或真夜中突如「だれだれ死す」と例の「お題目」の時と同じ様に私の口の中から出て来るのである。それは私の全然知らない兵隊の名前であったり、私が仮そめに、あんな奴死んじまえと思った軍曹だったりした。 勿論翌朝、看護兵がその死を発見するのであった。私は当初私が憎んでいた軍曹が死んだ時私が呪い殺したのだろうかと自分を責め昔映画か或いは本で読んだのか解らないが「自分が少しでも憎いと思う者が次から次へと死んでいく物語り」を思い出して慄然とした。而し私の全く知らない兵隊(名前も知らない)の方が多かったので自責の念は薄れた。 これは必ず真夜中の事であり、突然に口が開き「誰々死す」と発言する、そしてその人の方角を左右いずれかの手で交通巡査の腕の効きよろしく指し示すのである、勿論寝たままの格好である。時には眠っており、自分の声(誰々死す)で目を覚ます事もある。だから夢を見当ていたのではないかと自分から疑う事もあり、眠れぬままに故国を思い、爺(父親)は生きているだろうかなどと思った途端に「父親は生きている八十一才」と自分の口から出てきたのである。話は少しそれるが、私が日本に帰り実弟が病院に、初めて逢いに来てくれた時私の口から最初に出た言葉は「父親は生きているか、何才か」であった。この予言が本当に当たっているかどうか確かめたものだった。弟は「元気だよ、八十二才だよ」と応えて私は思わず「やっぱり」と云った。「やっぱり」の中に非常に感慨が篭もっていたので弟には何が「やっぱり」なのかサッパリ解らないので私がとうとう頭に来て仕舞ったと思ったと後から聞かされた。私が日本に帰ったのは昭和二十一年の一月であり年を越えているから八十二才で、やっぱり当たっていたのである。 そんなことで「誰々死す」と時々やるわけであるが、前にも述べた通りそれは必ず真夜中であり、眠っていた時もあり、空腹の為目が覚めていた時の方が多かった。「誰々死す」とやっても誰も見に行く訳ではなし、翌日になって、冷たくなっていても昨夜「誰々死す」とその方角を指し示し厳かに宣言した事など忘れて仕舞ったのか?誰も気にしないのか、現実に死者が霊安室に運ばれて云っても、囁(ささや)き一つ起こらない。その時皆んなが眠っていたのであろうか、いやそうではないと思う。腹がへるのは皆んな同じだろうし、一つの幕舎に八十人は寝ていたのであるから昼でも夜でも誰かは眠り、誰かは目覚めていた筈である。 それにも拘らず誰も問題にしないのは、他人事処ではなく自分自信が生きるのに必死だからだろう。ひもじさはそれを経験した者のみが知る辛さであり食物以外の何事も関心を示さなかったとしても不思議でないと、現在の私はその様に自分に言い聞かせる。 女房や子供達まで「夢を見てたんだ」とか「潜在意識が働いていたのだ」とか云うのでこんな事を書いても誰も本気にしないだろうと何回か書き始めて中断した。 而し潜在意識なら、自分の全く知らない人の名前がどうして出るのだろう。而も百発百中(否十発十中)とは。 これは予言と云うのであろうか、いや予言とはその人の直感なり予感なりその人が判断して云う事であろう、私のは予感も直感も無しで判断など有り得ない。全く突如として自分の口から言葉がひとりでに出て来るのである。