南の夜の海は月に映えて遠く沖の方が青く金波銀波に輝いている、波は夜光虫で蛍日の様に光っている。 私は真夜中の浜辺の岩に立ち疲れも忘れて月を眺めている、さすがに海の風は頬に冷たく心地よい、遥かに望郷の思いが込み上げて来る、然しそれも束の間、空腹が現実に引き戻して呉れる、大事な睡眠の時間を浪費することは許されない。足元の岩の上をチョロチョロと黒い影が動いた、私は我に帰り生唾をゴクリと呑み込んだ、これを逃してはならないと、じっと身構えサット押さえた。 甲羅の直径が六糎程もある蟹だ、私は夢中でガリガリと齧った、折角の大きい蟹なのに月夜の蟹には中身がない、鋏から爪の先まで丸ごと食べても食べでがない。食べ乍ら次の獲物を狙っているのである。 チョロチョロと岩の上を黒い影が動き廻るのであるが、近づくとサット穴の中へ逃げ込んで仕舞い中々捕れない。 目的は海岸づたいに約一粁ほど歩いた処の小川である、河口は十米ほどの幅になっているが百米も遡れば、ホンの一米程の綺麗な小川である。そこには内地のドンコやカジカの様な魚や四、五糎位いの川海老がいる。 私は三日にあげず、この小川で蚊帳の網でドンコや川海老を漁り蛋白質を細々と補うのであるが、これを狙ってウツボを掛ける兵隊も多く一粁位の間に四ツも五ツもウツボが仕掛けられている、川幅が一米位の小川であるから狭い処は五十糎もない所がある、そんな所を狙ってウツボを掛けるのであるから小川を上がる魚は一網打尽である、これではこの川に魚が少なくなるのは当たり前である、だから一網一網掬いながら一粁遡っても一匹か二匹のドンコしか捕れないのが落ちである。だからウツボの仕掛けてある所に来ると、どうしても引き揚げて見たくなるのである。草原を走る小川であるから月夜の晩は何粁も見通しが利くのであるが、こんな時刻には自分の他に人ッ子一人居ないのは解りきっているが人の仕掛けたウツボを揚げるのは心暗い、増してお月様が光々と照らしているので、ぞっとする程恥ずかしくなるが、それでも、引き揚げて見ようと云う誘惑には勝てない、大抵の場合は何も這入っていなくて、落胆するのであるが偶にはドンコや海老が這入っていると夢中で武者振り付くのである。川海老の殻はそうは固くはないが、頭の先端はひどく尖っていて鋭利な刃物のように切れる。踊りを頭から食う訳であるから必ずと云っていい程唇を切られ大事な大事な血を流す事になるが、三、四遍舌で舐めればすぐ止まる。 空き腹に食うドンコや海老の味は格別である、全く生き返る思いである。 暫くして獲物を食べた後はウツボを又元のようにキチンと掛け直して置くのである、明日の朝までに又這入っていることを祈り乍ら、そして又、他人の物を盗った醜い自分を嘲笑い乍ら、自分勝手な理屈を付けて言い訳を云って見るのである。 彼らはウツボを作る元気がある、椰子に昇り椰子の実を採る元気がある、野鳥を捕り野豚を狩る元気がある、然し彼等は獲物の一かけも病人や私達の様に弱り切った兵隊に分け与えると云うことをしない、「働かざる者は食ろうべからず」がニューギニアの軍隊の掟であっても、私達にも生きる権利がある、生きるための盗み、それは許されてもいい筈だと、そんな勝手な理屈を付けて見るのである。