野戦病院と云っても、只だ椰子の葉で葺いた堀立小屋が木立の中に二間間口の十軒長屋よろしく二、三ヶ所程に立っている丈で、内地で無理に想像しようとするなら四十過ぎの人なら或いは記憶にある人もいるかも知れないが馬が陸軍の重要兵器であった頃、大陸に出征する兵馬の一時駐屯する地点や、港付近に、丸太を組立て葭簀張(よしず)りの厩が立ち並んでいた事を。 全く厩と同じ感じだ。地べたに草を敷いて天幕を持っている兵隊は、それを敷き、何もない兵隊は破れた軍衣のまま、寝そべっている。軍医も看護兵も居ない、只だ死ぬまで寝ていられる場所に過ぎなかった。軍医や看護兵は半里(二粁)程離れた小山の中腹の林の中にここよりは、こましな小屋を作り、そこで寝起きしていた。そこは、床を上げてあり窓(椰子の葉であみ、つる草で軒からつるし、つっかい棒で明ける事が出来る)もあり、一応雨露は凌げる訳で兵隊達の病棟よりはましであった。 いも畠も近くにあるし、サゴ椰子林も近く、澱粉隊との行き来も近いので食べ物はそう不自由しない。 軍医や看護兵は一日一回病棟を見廻り、マラリヤの薬(キニーネ)を与えたり重病兵には椰子の水、(ココ椰子の実の中にあり、各種ビタミンを含んだ無菌の栄養水で私達には到底手に入らない垂涎の的であり、そのまま呑むと、気が遠くなる程うまく感ずる。今呑めば生臭いサイダーみたいで、くせがあり初めからはなじめないだろう)の注射をしてやる事と、澱粉隊から届いた、生澱粉を兵隊一人当たり飯盒の蓋に八分目宛、一日の食糧として与えるのが日課だ。 兵隊達はこれをどうして一日もたすか、それぞれ工夫する。うどんにすれば一食分しかない。くずかきにすれば二食分ある。うどんにすれば汁に何かだしいるし、塩も余分にいるので、ダボハゼかエビでも取れた時かでないとやらない。うどんはうまいが、後の二食はムボいものくきの飯盒蒸しか、野草の飯盒蒸しをしなければならず、野草を取るのも大変だし、第一腹に持たない。ムボいものくきと野草が続いた晩など、兵隊達の腹はクウクウ音を立てて、寝つかれない。たまたま月夜の晩だと、月が西の山へ落ちる頃を見計らっていも畑へ這い手さぐりで芋を掘り土をはらってぼりぼりとむさぼり喰う。 朝日が東の山から顔を出す前に病棟に帰りそ知らぬ顔で、点呼を受ける。いもが飯盒一杯掘れた時は帰り道の途中の適当な場所(毎日野草を取りに出る草原の入口にあるラワンの木の根本の草むら等)にかくし、野草を取りに出た時に一、二本づつ(三、四回)サゴ椰子澱粉のくずかきの中に入れたりして食うのであるが、時々はくずいもの一つもなく、仕方なく、くきをつんで帰ることもある。 いものくきの方がまだまだ野草よりはうまい。兵隊達は気の合ったもの同志が二三人組んで共同炊事をやる。即ちそれぞれの分担を決め野草を採りに行くもの、河原でカニを採るもの、山でムボいものくきを採るもの、枯れ枝をさがすものと云った具合で、合理的考え方ではあるがこれが中々長続きしない。兵隊達の体力もそれぞれ違うし、労働の成果も違う、損得勘定がうまく合わないからだ。だから二、三日仲よくやっていたと思うと又別々の行動をとると云った具合だ。 ついたり離れたり、或いは共同で、或いは物々交換で、兎に角一日を生きのびて行く工夫をする。体の弱いもの許の集まりだが特に私などは力のある方ではないから無理が利かない。 少し遠出をすればよい野草があっても、つい近くで探す様になる。そこで、近くの小川に夜中に流し針を掛けることを考え付き、針金で釣り針を五つ六つ作り、椰子の繊維で編んだ二本の綱にそれぞれ二、三本の針を付けて昼間の中にミミズを探し空き缶の中に入れておき、夜遅く針に付けて、綱の処に重しの石を付けて小川に流す。明朝早く、誰も起きない間に、こっそり抜け出して、綱を引き上げると、時には三つの針に三匹のダボハゼがヒクヒクとはねている。悪い時でも二本の綱で二、三匹は掛かっている。針をハズシ、ミミズをハゼの口の中から吐き出させ、そのまま頭からボリボリと喰う。収穫が四匹の時は二匹をその場で喰い、二匹を持ち帰り仲良しの筑比地軍曹と一匹づつ分ける。五匹の時は一匹をその場で喰い、二匹づつ分ける。こんな具合で、筑比地軍曹とは共同炊事が割合に長く続いた。