第一回目の召集礼状を私が受け取ったのは京都の丸物百貨店に勤めていた昭和十二年七月の下旬だった、入隊の日まで約一週間しかなかった、その間に職場での送別会や、会社主催の歓送会やらで、故郷(茨城県日立太田市当時は町)の土を踏んだのは入隊の二、三日前だった。 私は九人兄弟の真ん中で、上に兄が二人姉が二人下に弟が三人妹が一人と多くの兄弟姉妹の中で育った。父は医は仁術なりと信じ又それを実行した貧乏医師であったから九人の子供を育てるのは中々大変であったろうと、子供の頃から親の苦労を推し測ったりもした。沢山の兄弟の中で医者になったのは長姉丈で、その頃豊島家へ嫁して、東京の田端で歯科医師を開業していた。義兄豊島は経理士(後公認会計士)をしており、姉は金銭的にも可成り自由があったので、父親や弟妹を度々呼んで何かと面倒を見て呉れた。特に私は一廻りも年の違うこの姉から子供の頃から可愛がられた。だから私へ召集礼状が来た時も非常に心配して「お題目」を晒に墨書きしたお守りを、肌身離さず大事にする様と云って渡して呉れた、四十数年も昔のことで、実家の常陸太田で貰ったのか或いは田端駅か上野駅か軍用列車の窓越しに貰ったのか覚えていない。第一姉が何時の頃から日蓮宗を信じ霊友会に入ったのか皆目解らないし、第一回の出征で支那大陸での歴戦を終え昭和十四年八月二十六日無事帰還し第五十一師団宇都宮聯隊で母親がその年の四月六日死亡していた事を知った時も只だ悲しく残念で残念で夜の白むまで泣き明かした丈で自分の家の宗旨を知らぬ程私は無信心であった。 私が自分の家が日蓮宗である事を知ったのは除隊して母親の墓参をし母の墓石のまえに立った時である。だから姉から「南無妙法蓮華経を信じなさい、何かあったら法華経を唱えなさい」と出征の時くどくどと云われた事など戦地でもすっかり忘れていた、増してお題目のお陰で無事帰還出来たなどとは夢にも思ったことはなかった。然し私は姉から貰ったお題目を大切に大切に胸のポケットにしまっていた。信心からではなく、姉の私を思う心が伝って来るからだ、それに誰だって困った時に頼みにする神仏が有った方が心が休まる、只だそれ丈けであった。私はお題目が私を守って呉れると思うのではなく、姉が私を守って呉れると信じお題目を大事に持って帰ったのである。出征中に死んだ母がどんなにか戦地の私を心配したことだろうと思うにつれ、今は母を慰める術もなく、孝養を尽くし度くとも、言葉さえ通ずることは出来なくなって仕舞った。せめてもの思いで位牌を作り小さな仏壇を買って毎日お水とお題目丈を上げる様になった。独身だったので食堂で食事をする毎日だったのでご飯は上げられなかったが、母親が一日も早く成仏する様に何も解らない儘、只だお線香とお題目丈けを上げた。お題目を唱えても、母親が成仏するかどうかは解らない。ただ唱えなかったら成仏出来ないかも知れない、そう思って仏壇の前に座るとひとりでにお題目を唱え度くなるのだった。 私は信心からではなく、何となく線香を上げお題目を唱えると亡き母と私の心が細い煙で繋がる様な気がして毎日そうしていた。 そして姉から貰ったお題目(私と一緒に支那大陸を二年間駈け巡ったあのお題目)は私が引っ越しをする度に「独り者のくせ仏壇なんか持って」と嫌がられ乍ら仏壇の引き出しの中に納まっていた。 第二回目召集は昭和十六年七月下旬であった。未だ大陸での戦争を支那事変と呼んでいた時分で中野正剛さんなどが日米戦争の不可避論を打っていた頃であった。蒋介石は重慶に逃げ込み支那事変は泥沼の深みにはまった状況であった。 丸物百貨店でも衣料などは切符制になっていた様に思う。しかし新しい晒が手に入らないと云う様な時期にはなっていなかったが何故か私は古いお題目を胸のポケットに抱いて入隊した。